JAL 日本航空

DC-4
・DC-6B
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DC-8
CV880
DC-10
MD-11
MD-87
MD-90

B727
B737
B747
B767
B777
B787

DHC-Q300,400
CRJ-200
EMBRAER 170
SAAB340B

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本航空 DC-6B

ダグラス DC-6B JA6205

ダグラスDC-6Bは4発レシプロ機で、DC-4のストレッチ型で与圧キャビンを持ち、約700機が製造されました。
エンジンはP&W社のダブルワスプR2800-CB17、約2500馬力を4基搭載。
(DC-6Aは貨物機、DC-6Bは旅客機として製造されたが機体は同じものであり、発注から納入までに2年もかかったので、米スリックエアラインズからDC-6Aを購入して旅客機に改修し、JA6201”City of tokyou”として1954年2月2日に国際線定期便第1号としてサンフランシスコへ就航させた。)
このモデルの機体、JA6205は1954年9月に日本航空が導入したDC-6Bで”City of Osaka"と命名されました。
映画、ALLWAYS続・三丁目の夕日に登場するのはこの機体です。(よくYS-11に間違えられていますが...)
1953年-1969年の長きにわたって日本航空初の国際線機材として活躍した。
ライバル機はロッキード・コンステレーションでした。

以下は昭和38年8月25日発行の日本航空整備株式株式会社の十周年史からの貴重な資料の転記です。

DC-6Bを迎えた頃
10数年前の記憶を記憶をたどってみると、わずか数十人の従業員と一むねのハンガーが全財産でであったころは、当社の作業もあまり苦にならなかったように思う。会社が1周年記念日にまだ間がある頃、早くも日本航空は国際線就航用として、当時最新鋭機ダグラスDC-6Bを決め、諸準備に取りかかぅた。この調査と検査のため、今は在来中の金森氏とわたくしが、ダグラス社に2カ月の予定で派遣された。
ところが、貨物機であるこのDC-6A型機の旅客機への改造作業が遅々として進まず、合わせて無線機の改修にに誤りがあったので、これに我々は大いに閉口し、ついに出張は昭和28年5月8日から9月10日までの長きにわたってしまった。
後略(資材部調査役 堤 日出夫氏)


28年11月28日、日本航空は太平洋路線の開設に先立ってDC-6Bによる太平洋調査飛行を実施し、私もこれに同乗した。
搭乗機’City of Tokyou'が出発する旧ターミナルは、午後10ごろであったが、あふれんばかりの日航関係者、報道関係者、見送りの人でごったがえし、日の丸をつけた航空機が戦後初の渡航ということで、飛行場は興奮と感激で一種の熱気に包まれていた。
出発にあたって、搭乗案内のアナウンスがひとりひとりの搭乗者の名前ほ発表し、そのたびに拍手や声援が飛ぶという、今では想像もできないような光景であった。そのとき当社の徹夜残業の人たち十人位が見送りに来てくれて、私たちの名前がアナウンスされると、一斉に「バンザイ」を叫んだのは嬉しいやら恥ずかしいやらの重いdふぇであった。後略(カストマー機体工場長 福島 穣)氏

1/500という小さいスケールながらJALの企画商品だけあり緻密さに優れています。


 写真のDC-6 JA6205 "City of Osaka" は1954/09/01から1966/08/24まで就航した。                               

       

DC-6BはDC-6の機体延長型
全長32.5m、 全幅35.81m、全高8.66m、最大離陸重量48.6t、最大着陸重量40.0t、巡航速度450km/h、航続距離4,000km
エンジン P&W Double-Wasp-R-2800-CB17、標準座席数36~58席(国内線使用時36~96席) 


モデルは㈱JALUX販売 1/500 JAL DC-6B City of Osaka  金属ダイキャスト ヘルパ製です。

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